皆さまこんにちは。
7/23(火)に行われる、ミセスユニバース日本大会ファイナリストの皆さまをご紹介しています。
ミセスユニバースはWomen Empowerment =女性の社会進出をテーマに行われている大会です♡
こちらの記事では、数多くの応募者の中から、ファイナリストになられた皆様について紹介いたします!
【遠藤京子さん】プロフィール
IT・デザイン/週末介護士
初めまして!
ミセスユニバースジャパン2024ファイナリストの遠藤京子です。
ミセスユニバースに応募しようと思ったきっかけ
「自分に自信とゆとりを持ちたい」と思ったことが応募の理由です。
私はWワーカーで、平日昼間はITコンサルタントとデザインの仕事に従事し、夜間と週末は介護士として働いています。
シングルマザーということもあり、常に人の2倍働いて家計を支えてきました。
また、アパート1棟全8室を所有する不動産オーナーでもあります。
こちらのアパートは相続や贈与を受けたものではなく、自分1人の力で購入した「人生で一番大きな買い物」です。
常にアクティブ&ポジティブ、そして少々アグレッシブ。
弱音など吐いたこともなく、2足のワラジで走り続けてきましたが、40代も半ばを迎えた頃から、自分の心に「ゆとりがない」と感じるようになりました。
容姿・体力の衰えに対する不安や焦り、そう遠くない将来巣立っていく子供たち、独りで年老いていくことの孤独。
寂しさを感じると同時に、そんな惨めな自分への苛立ちも募っていきました。
コンサルとデザイン、そして介護は全く別の職業であっても、いずれも企業や人に「寄り添う」仕事です。
しかし、自分にゆとりのないときは、相手の話にじっくりと耳を傾け、親身になって対応するということがとても難しく、また辛くもあるのです。
「他者のために何かをする」ということは、心のゆとりがあってこそできることなのだと、この歳になって知りました。
2足のわらじを履いたシンデレラ☆
人生で悩んでいた時期について教えてください
ちょうど10年前、当時はまだ夫がいて、小学生だった子供たちと4人で古い賃貸アパートに住んでいました。
夫は体調が芳しくないことが多く、会社を休んだり、午後早めの時間に帰宅することが多くありました。
夫の体調の悪化と比例して、私が家から出かけることや夫の要望どおりに家事をこなせていないことについて叱責を受けることが多くなり、夫に恐怖心を抱くようになっていました。
夫は機嫌が悪くなると私や子供たちだけでなく、ペットにも辛く当りました。
小型犬の頭を掴んで持ち上げたり、夫が帰宅するまでに処分しておくようにと言われました。(実家で預かってもらい処分は免れました)
また、大好きだった仕事は夫から退職するように詰め寄られて続けられなくなりました。
生活費は用途や金額を夫に申告して都度お金をもらうというスタイルでしたが、子供や自分のものを買うには不十分でした。
耐えかねて離婚を考え始めた頃、実母の乳ガンが発覚しました。
既に全身のあちこちにガンが転移しており、手の施しようがない状態でした。
母に余計な心配をかけないように、生きていてくれる間は夫婦円満を装うべきか、母に全て事情を話して離婚に踏み切るかで悩んでいました。
しかし、当初は余命3ヶ月と診断された母ですが、思いのほか病気の進行が緩やかで、ガンの告知を受けてからもたくさんの思い出をつくることができました。
海外に行ったことがなかった母のため、人生初のパスポートを申請し、大型客船で韓国へ旅行もしました。
家族と過ごす時、母はいつも楽しそうにしていました。
「母が生きているうちは離婚できない」と思うことは、母の死を待っていることになるのではないか? そう考えるようになり、離婚を進める決意をしました。
両親は孫(私の娘と息子)が可愛いですから、「離婚なんかしたら父親のいない子供にさせてしまう」「どんな父親でもいないよりいた方が良い」という考えで、離婚には猛反対。
心のどこかで「実家に帰っておいで」という言葉を期待していましたが、そんな甘い考えは大間違いでした。
身内からの援助はなく、弁護士と行政のサポートを受けて別居を開始することになりました。
苦しい思いをしながらも希望の光はありましたか?
テーブルの上に弁護士の名刺だけを置いて、誰にも何も知らせずに、子供たちを連れて家族で暮らしていたアパートを出ました。
そして、愛用していたノートパソコン1台だけを持って、子供たちと一緒にNPO法人が運営する施設に身を寄せました。
季節は夏の終わりで、子供たちはまだ夏休みでした。
施設から海が近かったこともあり、毎日子供たちと海岸を散歩したり、魚やカニを捕まえたりしてのんびり過ごしました。
先のことは何も分かりませんでしたし、不安なことはたくさんありました。
家を出てきたことを、夫はすごく怒っているのだろうなと恐ろしく思うこともありました。
しかし、別居以前は夫の許可がなければTVも観られない、自分の家の冷蔵庫にあるアイスも自由に食べられないという生活をしていましたから、母子3人での気楽で自由な暮らしはとても楽しいものでした。
そこから再就職を決め、アパートを借り、新しい生活をスタートしました。
美大のデザイン科を卒業し、新卒から長い間デザインの仕事をしてきたので、就職には苦労しませんでした。
すぐに希望通りの仕事が見つかりました。 大好きな仕事をしながら大切な子供たちと過ごす毎日はとても充実していました。
幼い頃から「好きなことを勉強しない」「得意なことを伸ばしなさい」と言って、大学でデザインを学ばせてくれた両親にこれほど感謝し、そして申し訳なく思ったことはありませんでした。
施設を出てアパートを借りるとき、父に保証人をお願いするのは申し訳なかったので、保証会社を使いました。
アパートの契約が決まったことを両親に告げると、父は「さすがだなぁ」と言いました。
私を褒めることなど滅多に無かった父の言葉。
そこには「すごい」「よくやった」という意味だけではなく、「本当に離婚してしまうのだな」という諦めの気持ちが込められていたのを感じ、胸が痛かったです。
ここから順調にキャリアを積み、勤務先では管理職を務めるまでになりました。
それでも、なかなか上手くいかなかったことはありましたか?
別居開始から調停不成立~2年間の裁判を経て、ようやく離婚が成立しました。
離婚成立を見届けるかのようにすぐに母が亡くなり、その2年後に父もガンに倒れました。
そして、母の後を追うように呆気なくこの世を去ってしまいました。
両親が居なくなり、初めて母子家庭であることを「寂しい」と感じました。
「私が心配をかけたせいで、父はガンになってしまったのだ」と、自分を責め続けました。
お盆や年末年始に帰る実家がなく、母子で過ごす寂しさには未だに慣れません。
今思えば、小学校の運動会は大変でした。
両親がいた頃は学校行事にも駆けつけてくれたので、大きなレジャーシートを広げて賑やかなお弁当タイムになりましたが、私と子供たちの3人では4分の1に畳んだ大きさでも充分です。
子供たちに惨めな思いをさせないように、毎年気を遣いました。
上の子(娘)が卒業してしまい、お弁当が下の子(息子)と私の2人分だけになってからも、重箱にたくさんのおにぎりや唐揚げ、ウィンナーを詰め、大家族にも負けないような大きなクーラーBOXを持って参加しました。
よそのお父さんが子供を肩車して帰っていくのを見て、私も子供たちを肩車しました。
この「運動会の肩車 」は子供たちが小学校を卒業するまで続けました。
「よその家庭と比べて足りないものなど無いのだ」という意地もあったように思います。
年々重たくなっていく子供たちは、高学年になると少し恥ずかしそうにしていましたが、私を満足させるために6年生までずっと肩車させてくれました。
子供の成長と共に、悩みや不安の大部分を金銭的なことが占めるようになりました。
元夫からの養育費の支払いは最初の1年ほどで途絶えていました。
当時も人並みのお給料をいただいてはいましたが、母子3人での家賃を払いながらの生活は決して楽ではなかったです。
シングルマザーとはいえ母子ともに健康で、フルタイムで働いている程度の収入があれば、様々な公的手当からは対象外となってしまい、ほとんどの支援は受けることができません。
両親が私にしてくれたように、私も子供たちに好きなことを思う存分学ばせてあげたいと思っていました。
「医学部だって、大学院だって、本人が望むのなら私が卒業させてみせる」と周囲には息を巻いていましたが、「でも、どうやって?」という不安に押し潰されそうになっていました。
辛い時期を乗り越えたあと、大きな成功体験を教えてください!
この頃からWワークを始めました。
それと同時に投資に興味を持つようになりました。
当時は何も分かりませんでしたが、どんな投資も元手が要るということだけは知っていましたので、最初はとにかくがむしゃらに働きました。
会社の仕事がない週末や休日は、飲食店やスーパーの倉庫などで働きました。
そして、給与所得者の不動産投資をサポートしているという会社に連絡して、融資を受けるための条件について尋ねました。
頭金や初期費用はいくらなのか?
どの程度の年収と、どのくらいの規模の会社に何年の勤続年数が必要なのか?
そもそも、こんな私でも不動産オーナーになれるのか?
不動産会社とはその後、不動産購入に至るまでずっとコンタクトを取り続け、アドバイスを受けました。
私はWワークで働いて必要な資金を貯めながら、自分が融資の条件に合ったスペックの人物になれるようキャリアプランを再考し、それに沿って歩んでいきました。
そして、とうとう念願の不動産を購入し、1棟アパートのオーナーとなりました。
更にその2年後、都内に小さな建売住宅を購入して転居し、両親が他界してから親族に預けていた犬と一緒に暮らせるようになりました。
大きなターニングポイントとなったのは、介護職との出会いです。
融資を受ける必要がなくなったので会社員を辞め、フリーランスとして働くことにしました。
組織に属さずに働く不安はありましたが、時間が自由に使えるようになるので、 「何か新しいことを始めたい」と思い、介護士の資格を取得するためのスクールに通いました。
私にとって介護の仕事の魅力は、「お年寄りと触れ合うことができる」ということでした。
両親を病気で亡くした私は、いわゆる「高齢者介護」を経験することができなかったので、利用者様のお手伝いをすることが両親への恩返しのように思えたのです。
介護士となって仕事を始め、利用者様やご家族様と過ごす時間は、両親を亡くした寂しさを忘れさせてくれる温かいものでした。
私は介護の仕事を始めるまで、介護とは「してあげる」ものだと考えていました。
しかし、「させていただくもの」であることを知りました。
ご自身のお身体が思うように動かなかったり、認知症等で不安なお気持ちでいらっしゃっても、介護士に対して「ありがとう」と仰ってくださる、そんなお気持ちの広さと温かさには尊敬の念を抱かざるを得ません。
この素晴らしい介護の仕事をより深く学びたいと思うようになりました。
私の現在と、ミセスユニバースジャパンを通して社会に伝えたいこと
私は現在も、フリーランスのITコンサルタント/WEBデザイナーとして働きながら、介護の仕事を続けています。
喀痰吸引や経管栄養といった医療行為を行うための資格も取得しました。
その資格を活かして重度障害訪問介護に従事し、難病や障害を持つ方の支援にあたっています。
おかげさまでアパート経営も順調で、満室御礼となっています。
仕事が大好きで、働くことは苦ではないのですが、不労所得があるということは金銭面でも精神面でもゆとりに繋がります。
忙しい毎日ではありますが、趣味においてもやりたいことを我慢したりはしません。
一昨年には、学生時代に出会った大好きなスポーツ「チアリーディング」に復帰し、ジャパンカップにも出場しました。
さらに今年は、空手と器械体操、そして、ミセスユニバースジャパンにも挑戦しています。
「2足のワラジ」「Wワーク」というと、中途半端な軽い気持ちで仕事をしていると思われるかも知れませんが、そうではありません。
その時々に必要な収入や興味関心に応じて、自身の働き方、つまり人生をカスタマイズしていくことは、経済的にも経験的にも人生を豊かにします。
日本の現代社会において、介護・福祉の人材不足は深刻な問題となっています。
私はIT技術の活用と副業人材の積極採用で、介護・福祉の現場をより活気に溢れたものにしていきたいと考えています。
そこに働く人たちが、より豊かな人生を送れる仕組みをつくる。
介護を必要とされる方に、必要最低限の支援だけではなく、「より良く生きる」ためのサービスをお届けする。 私は、そんな力になりたいです。
最後に一言
今、辛い状況にある方は「これがずっと続く」と思わないでください。
人生は常に変化し続けます。
「私なんか」と思わずに、「欲しいものは欲しい」「やりたいことはやりたい」と手を挙げ、声をあげましょう。
常に選択肢は複数あります。
選ぶのはいつでも「自分」です。
女性が幸せな人生を歩むために必要なのは、「ガラスの靴」とは限りません。
自分にぴったりの靴を履いて、一緒に笑顔で歩んでいきましょう!
【遠藤京子さん】インスタグラムはこちら!
遠藤京子さんのインスタグラムはこちら!
7/23(火)の日本大会開催まで、一人一人が様々な形で努力を続けています。
ぜひ皆さまも応援お願いいたします!
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