スーパーモデルインターナショナル世界大会2019へ日本代表として出場いたしました、蛭田麻弥(ひるたまや)と申します。
初めての記事なので自己紹介中心にご挨拶させて頂きます。
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蛭田麻弥の自己紹介
改めまして、蛭田麻弥(ひるたまや)と申します。
私は福島県出身で、小学生の頃から芸能界への憧れがあり、東京へ行きたいと思っていました。
憧れといっても、自分がなりたいというわけではなく、芸能人のそばで仕事をする、スタイリストやヘアメイクアップアーティストになりたいと思っていました。
中学生になってからは毎月6種類の雑誌を購入し、ファッションや流行をそこから学んでいました。
国際交流の授業も好きで、英語のテストで全国1位をとったこともあり、英語弁論大会へ出場したこともあります。
高校から専門学生時代
高校入学は通訳になりたいと思っていて、地元の国際学科が学校を受験をしました。
2次試験でなんとか地元の高校に受かり、通うことになったのですが、そこで夢がころころと変わり始めます。
高校3年になり、周りが就職や進学が決まる中、私は特にしたいことも見出だせず、地元でふらふらと働こうかと思っていたときに、友達でネイリストの勉強をしていた子に刺激を受け、エステティックの専門学校へ通うことを急遽決めました。
地元から近いのは、仙台校か東京校で仙台校の方が1年短い1年間で卒業できるコースだったので、仙台へ行きました。
そこで初めての一人暮らしがスタートします。
専門学校なので、年齢はバラバラで様々な学びがありました。
ギャルに憧れていた当時の私を変えてくれたのは、この学校に通ったからだと思っています。
東日本大震災
そして、卒業式の3日前に忘れもしない東日本大震災が起きました。
私は夢を見ているのかもしれない、映画の世界に入ったみたい、もしかしたら死ぬのかもしれない、、、
などとたくさんの考えが頭を過りました
ライフラインが止まり、避難所生活を始め、自分の無力さに悔しくなりました。
そして、自分のやりたいことや夢を振り返りました。
その時に、
このまま誰にも知られずに死ぬのは嫌だ。誰かに夢や希望を与えたいと感じ、電気が通って見られるようになったテレビに映る芸能人たちと同じ場所に立ちたい!
と感じ始めました。
エステの就職先が決まっていたので、高速道路が開通した日に上京。
東京は何事もなかったように人々が生活できていて、なんだか悲しくなりました。
エステティシャン時代
エステティシャンとしての仕事は朝から夜までの長時間労働。
新人の頃は覚えることが多いので、雑用から始まり、空いた時間で先輩に見てもらいながら練習をします。
ようやくお客様に入れるようになっても、女性相手の仕事なので、美意識が高く、どんな質問をされても答えられるように日々勉強
たくさんの知識や自分磨きも必要になります。
その生活が続いていく中で私は人を綺麗にしているのに自分が綺麗でいられなくなっているような気がしてしまい、その職から離れたくなってきました。
芸能事務所からのスカウト
そんなときに、芸能事務所からのスカウト
東日本大震災の時に感じた影響力をつけたいという夢が叶うかもしれないと、芸能の道へ行くことを決めました。
10代前半から始めている人が多い芸能界を目指すには、年齢的にも早くはない決断だったので、小さな仕事からコツコツと積み重ねることにし、小劇場での舞台や撮影会などを中心に活動していました。
その中でも一番好きな仕事はWebCMの撮影。
アルバイトで働いていた飲食店がテレビの影響で翌日から行列を取り戻したり、当時住んでいた近所のスイーツ屋さんがテレビの影響で行列ができたりしたところを見て、テレビや広告の影響力はすごいと実感しました。
そして、私は幼い頃からCMを見ることが好きで、未だに電車で流れるCMを常に見ていたり、空港のポスターをチェックしたりしています。
そういうことに気づいてから広告の仕事をしたいと思うようになりました。
広告の仕事をすれば、その企業の商品を売ることに役立てるかもしれないし、自分に興味を持った人が私のことを調べて、福島県に興味を持ってくれるかもしれないと思ったからです。
蛭田麻弥【Supermodel International2019への挑戦】

ミスコンへの挑戦
定期的な仕事は特になく、アルバイトや事務所頼りの生活を送っていました。
気付けば5年も経過していて、何も変わっていない状況に焦りを感じ始めました。
そして、大きなオーディションやコンテストを受けようと調べましたが、年齢的にオーバーしてしまっているものばかり。
その中から年齢もクリアしていて、自分が目指している方向に近いと感じたミスワールドというミスコンテストへエントリーしました。
2017年の7月末にミスワールド2017ファイナリストになりました。
初めてのミスコンは、コンプレックスだらけの私にとってとても刺激的でした。
それからいくつかのミスコン大会にエントリーしましたが自分が納得する結果は得られませんでした。
Bellissimaとの出会い【蛭田麻弥】
年齢的にもミスコンはこれで最後か、次に受けるもので最後か迷っていたときに、Bellissimaを発見しました。
日本大会ではなく、世界大会へ送り出している団体と知り、最初はなぜそんなことが可能なのか、今まで私は中々出場できなかったのにという思いを持ちました。
ですがお話を伺うと、Bellissimaから世界大会へ行っている多くのOGにお会いして、その革新的な団体に惹かれました。
もしダメだったら私には世界大会と縁がないと諦めようと決め、エントリーを決めました。
第一回選考会でスーパーモデルインターナショナル日本代表に選出していただきました。
タイで行われる大会と知っていたので、興味があったのですが、正直選ばれるならモデルよりもミスコンの大会だと思っていたので驚きもありました。
そして、喜びとともに不安も襲ってきました。
今まで日本大会に出て、日本代表を目指していた私は、日本代表になって世界大会に出られると決まったのに、頭の中は混乱。
日本代表になったらこうしたい、ああしたいと話していたことを実現するには正直時間が足りませんでした。
【蛭田麻弥】スーパーモデルインターナショナル2019世界大会を経験して
結果も大事ですが、何よりも素晴らしい仲間に出会えたことが私の財産だと思います。
国が違えば、文化も考え方も言葉も食事も何もかもが同じ国の人たち以上に変わってくると思います。
でも同じ人間。共通点はたくさんあります。
自分から話しかければ、話してくれるし、言葉がわからなくても伝えようと思えば伝わる。
同じ言葉を使っていても伝わらない人だっているのだから違う言葉で伝えるのは難しいかもしれない。
だけど、気持ちはきっと伝わるし、同じ時間を共有していたら分かり合える
言葉に不安を持って黙っていたら何も伝わらないし、始まらない。
結果がどうであれ、楽しかったとか、あんなこと、こんなことがあったと記憶に残る体験ができたことは本当に幸せです。
そして、他の国と日本の違いなどを知ることができて楽しかったです。
深い話をしていくと、今が輝いていても過去に傷を負っている人だっている。
15歳から28歳まで年齢は幅広いけれど、同じ時間を過ごして、情報を共有して、励まし合って、良きライバルであり、仲間でもありました。あっという間の11日間でしたが、26ヵ国の美女たちに同時に会える経験なんてきっとないので日本代表として、出場することができて本当に光栄でした。
【蛭田麻弥自己紹介】まとめ
今後は私の興味のある美容情報を中心に発信してけたらと思ってます!
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