Bellissima Japan株式会社 代表取締役
モデル・ミスコンプロデューサー
大島 一恵
<略歴>
東京都出身。ロンドン大学ロイヤルホロウェイ校応用社会心理学修士号
2007-2010年香港・台湾・タイ ・シンガポール等のモデル事務所に所属し、
東南アジア各国で広告モデルとして活躍
2015年韓国で「Beauty with a heart」をテーマに行われたミスコンテスト”World Beauty Queen”で世界大会優勝
東証一部上場IT企業での広報・コミュニティーマネージャー、アパレル商社での広報職を経て。2016年にBellissima Japan株式会社設立。
世界大会とライセンス契約日本一、6歳から79歳まで、世界に最も多くの日本代表を輩出している。
また、海外で挑戦したいモデルのプロデュースも行い300名以上に最高の経験と成功のチャンスを提供しています。
女性の未来に希望を抱けない 窮屈な子ども時代
私の生まれは東京。三人姉弟の長女として、厳格な祖父母がいる家庭に誕生しました。 母はお正月や法事等の行事では座る暇もなく、ずっと家事をこなしていました。子ども心に「女性は結婚したら自己犠牲」だと思っていました。 そして社会で賞賛されるのは家事も仕事も子育てもできる女性。 自由奔放な性格だった私は、社会が求める理想の女性像とのギャップから、年を重ねることに不安が増していったのを覚えています。
軽い好奇心から始まった “ミスコンとのご縁”
そんな私の世界を広げたのがミスコンでした。大学時代、楽しそうという軽い気持ちで挑戦したミスコンで、なんと“ミスキャンパス”に。ミスの中のミスを決める全国大会で出会った同年代の仲間は、10代で起業をしていたり、海外でのボランティアや一人旅を経験していたりと、とても輝いて見えました。私もミスキャンパスに選ばれたことをきっかけにモデル事務所への所属が決まり、年齢やバックグラウンドの違う方と仕事をする機会に恵まれました。社会が求める「理想の女性像」が幸せへの唯一の道ではないと知りました。
ミスユニバースでの挫折そしてコンテストへの絶望
モデルの仕事で少し自信がついてきた私は、知人から当時盛り上がっていたミスユニバースの参加を勧められ、また軽い気持ちで挑戦を決意します。するとそこで待っていたのは、想像を絶する苛烈な競争環境でした。帰国子女たちがナショナルディレクターと繰り広げる入る隙のない流暢な英語での会話。大会スポンサーに気に入られなければ呼ばれないイベント。モデルの仕事なら決まらなくても「ニーズにマッチしなかっただけ」と自分の評価を下げる必要はなかったのですが、コンテストで評価されているのは“自分”。そんな風に感じた私は、「ミスコンなんてスポンサーに気に入られた人が勝つ世界なんだ」と決めつけ、これを機にコンテストから距離を置いてしまいました。
見限ったコンテストへ再び。その舞台は世界大会
大学を卒業し、香港でのモデル経験を経て、イギリスで大学院留学をしている頃でした。香港の知人から「ミスコンの世界大会に日本代表がいないから出ないか」というオファーがきたのです。断るつもりでしたが、なんとこの世界大会は完全無料招待とのこと。もともと旅行好きだった私にとって無料で旅行ができて世界中に友達がつくれることは大きな魅力。結果、ワクワクが勝り世界大会への参加を決意したのでした。
世界大会で気づいたコンテストの真の意義
競争意識なく参加した世界大会でみた景色は、私のコンテストの価値観を一変させるものでした。
・祖国から移民した際に孤児となったが、両方の国の両親に声を届けたく活動する方
・人形のような美しさと心の美しさを併せもつ方
・周りを華やかにするカリスマ性高いムードメーカー
世界規模の多様性にふれるなかで、コンテストで評価される真に美しい人は「人に与えられる人」だと気づきました。そしてその時、大会主催者が私に「あなたの周りの人をサポートしようとする在り方がみんなの雰囲気をよくしてくれている。あなたが日本代表でよかった。」と声をかけてくれたのです。私も与えられる人になれるかもしれない、そう思えた瞬間でした。
世界トップ10に入るも、可能性の限界を感じ引退
私が与えられるものは何か。考えて出した答えが、自分のできることで周りの人をサポートし幸せにすることでした。当時から友達や後輩をコンテストに推薦しては、ドレスを貸したり、ボランティアで通訳したりしていました。自分がコンテストに参加した際は、他国の代表のサポートを心がけ、キプロス島で行われた世界大会では「friendship賞」と「世界TOP10入り」を果たすことができました。
十分な結果と思いながらも、やはりTOP3との違いは大きく実感していました。私の身長は世界でも小さく、英語のスピーチにも自信がない。グループ撮影の時も積極的な他国の代表に場所を譲ってしまう。私には上位に食い込むほどのカリスマがない、それを受け止め、コンテストの一般的年齢制限といわれる28歳を迎えてコンテストから引退したのでした。
幕を閉じたはずのコンテストで奇跡の展開
自分なりに納得し終わらせたはずのコンテスト人生でしたが、その後まさかの展開を引き起こします。29歳、韓国で行われるミスコンテストの世界大会に出場予定だった日本代表がケガで欠場するから代わりに出てくれないかとオファーが入ります。気になる年齢について確認したところOKがもらえたので参加を決意。年齢オーバーだしTOPに入るわけはないと気楽に自分のできることで望むことにしました。
世界中に友達を作りたかった私は、周りに何ができるかを常に考え心がけ、競争を意識することなく純粋に楽しみました。
すると、その結果は、まさかの優勝。
どれだけ努力しても届かなかった、あのTOP3の最も高い場所に運んでくれたのは、私の“スピーチ”でした。
「日本人は自分の意見を主張したり、目立つことに抵抗がある。しかしその奥に“想い”はあって、想いを引き出せれば、人に与えられる人になれる。私はそれをコンテストによって気づくことができた。
だから私はコンテストを通して自分の価値に気づく人を増やしたい。日本でコンテストを広めたい」
それは、私がコンテスト人生の末に行きついた、心からの“想い”でした。身長が高くなくても、英語が流暢でなくても、積極性が足りなくても、優勝できる。この世界大会優勝という経験によって、コンテストが自身の可能性を引き出す壮大な仕組みになっていることに気づいたのでした。
人の素晴らしさはそれぞれ異なる。それを同じ物差しにあてて競争するのではなく、自身の魅力に気づき「自分は与えられる人なんだ」と確信してもらう、そのためにコンテストを運営したい。
夢が明確になった瞬間を今でも覚えています。
日本にコンテスト文化を
夢の実現に向けた活動は、元ミスコン日本代表3人で立ち上げた社団法人からスタートし、31歳でBellissima Japanの起業に繋がります。その後、世界大会とライセンス契約日本一、世界に最も多くの日本代表を輩出する団体に成長しました。Bellissima Japanがプロデュースした仲間の中には、パリコレモデルになったミス、世界大会で優勝したミスター等、自分の可能性を華々しく開花させる方も生まれていきました。
一方で、日本代表の肩書を悪用してお金稼ぎをしたり、Bellissima Japanの活動を都合よくコピーして競合団体を作る人も生んでしまいました。
難病が発覚。メンタル低下も伴って最悪の状況に
その頃、たまたま受診した人間ドックによって、私の脳血管に国が指定する難病「もやもや病(ウィリス動脈輪閉塞症)」が発病していることがわかりました。頭を15cm開く大手術をし、術後はICUで2日間眠ったまま。目が覚めた時には、右半身がまったく動かない状況を経験します。
本来であれば回復に向けて長期間安静にするところ、余裕のない状況もあって退院後は投薬治療を行いながら早々に仕事復帰しました。負荷をかけた体に強い薬による副作用もあって、最悪な状態だった私は、病気発覚前からストレスだった日本代表を悪用する仲間に不満をぶつけてしまいます。
その結果、半分以上の仲間を失うことになりました。
どん底から私を救ってくれた
ミセスユニバースファイナリスト
最悪の状態に重ね、多くの仲間を失った私。夢に近づくつもりがどんどん遠くに行っているような気がして、私がやっていることは本当に正しかったのか、自分を見失いそうになっていました。さらにはコロナの影響で、完売していたチケットを全額返金しての大赤字のミスコン無観客開催。そんな失意の中、私に自信を取り戻させてくれたのが、ミセスユニバースジャパンのファイナリスト達の存在でした。
2020年、コロナ禍でのミセスユニバースジャパンは、オンラインを導入したこともあり、何か自分ができることをしたいと挑戦される方が増えた年でした。離婚を経験している方、DV被害者の方、癌サバイバー。それぞれ人生で経験してきたことを発信し、それぞれの社会貢献をしている方と沢山出会いました。
そのファイナリストから
「ミセスユニバースに挑戦して、初めて自分で自分の人生の舵をきることができた」
「嫌いだった自分を好きになることができた」
「ファイナリストへの挑戦で自分の使命に気づいた」
そのような声を多数いただいたことで、私の活動が誰かの人生を豊かにできていることを確信しました。私は今、ミセスコンテストの運営を通して多くの女性の挑戦の場を創ることが生きがいになっています。
私は人の美に順位をつけ、競い合うことに本当は興味がありません。競争よりも共生に価値を感じます。もちろんコンテストなので、全員優勝というわけにはいきません。それでもコンテストが大好きで運営をし続ける理由は、それぞれの挑戦が、個人の可能性を広げ、社会に“与えられる人”が増えると信じているからです。
ミセスユニバースジャパンの開催は私にとっての挑戦であり、社会貢献です。
その確信は”私の人生”がくれました。